2月29日:農民VS米大企業、映画にしたら訴えられた 「バナナの逆襲」フレドリック・ゲルテン監督

2016年2月29日

毎日新聞2016229日 東京夕刊
農民VS米大企業、映画にしたら訴えられた 「バナナの逆襲」フレドリック・ゲルテン監督に聞く

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 欧米の映画祭で上映され、賞も獲得したドキュメンタリー映画が日本で初めてロードショー公開されている。中米のバナナ農民が、1970年代まで使われた農薬の被害を受けたとして米国企業を訴え、その裁判を記録したスウェーデン人監督が企業から訴えられる−−。「表現の自由」やメディアのあり方について考えさせる内容だ。来日したフレドリック・ゲルテン監督(59)に聞いた。【藤原章生】

 この映画、日本では「バナナの逆襲」という邦題で上映されるが、第1話、第2話の2本から成る。

 ニカラグアのバナナ農園で働く労働者12人が、米国では使用禁止の農薬の影響で不妊症になった可能性があるとして、米国の食品大手ドール・フード・カンパニー(日本の株式会社ドールとは資本関係はない)を相手取り損害賠償を求める裁判を起こす。ゲルテンさんは、その裁判を追ったドキュメンタリー映画を製作。これが第2話(2009年、87分)だ。

 映画は09年、ロサンゼルス映画祭に出品される予定だったが、ドール社は主催者に上映中止を要求。ゲルテンさんを名誉毀損(きそん)で訴える。監督自身が上映に向け孤軍奮闘する姿を描いたのが第1話(11年、87分)だ。

 「私の置かれた状況は表現者、ジャーナリストなら誰にでも起こりうることです。だからこそ簡単に折れるわけにはいかなかったのです」。ゲルテンさんは語り始めた。ダークブルーのジャケットにグレーのTシャツ。強く訴えるというのではない、むしろ語りかけるような口調だ。

 第1話は、映画祭のコンペで上映されるはずだった作品(第2話)が、ドール社の要請でコンペから外される場面から始まる。「内容が極めて不正確で中傷的」であり、上映すれば「告訴する」との文書が映画祭の主催者側と監督に送られる。映画はコンペ外作品として1度、上映されただけだった。

 バナナ農民の裁判はロサンゼルスの法廷で審理され、ヒスパニック系弁護士の活躍もあり原告12人中6人の被害について「(企業側に)責任あり」との評決が一度は出た。だがドール社側は、上訴したうえ、「(原告の弁護団が)虚偽の証言を集めた」との訴えも起こして評決は無効にされ、ゲルテンさんによると争いは決着していないという。

 米メディアの多くはゲルテンさんに厳しく、非難の矢面に立たされる。「メディアの大半はドール社やそのPR会社に取材し、『貧しいキューバ人移民の悪徳弁護士がバナナ農民を原告に立て、米企業を脅迫している』『世間知らずのスウェーデン人が弁護士を英雄に仕立て上げた』といった物語として報じました。作品を見てもらえず、うそつき呼ばわりされ、かなりのストレスを感じました」

 名誉毀損訴訟の中で、ゲルテンさんは「実に多くのことを学んだ」と振り返る。

 「企業や政府当局が、自らの評判を落とすようなドキュメンタリーや記事にどう対処するかといえばこうです。作り手、つまり攻撃者を『取材が甘くプロとしての力量のない存在』のように見せる物語を作るのです。作り手の未熟さを笑うという古典的な戦略ですが、私のケースでも多くの米メディアがひっかかった。米国の報道陣には、大多数とは違う視点で物事を報じるエネルギーや好奇心が薄いという印象を受けました」

 ネットでも中傷されたが、ゲルテンさんの母国、スウェーデンのブロガーらの尽力で「作品を発表できないのはおかしい」との声がスウェーデン国内で高まった。請願の動きも広がった。「09年の後半には、スウェーデン国会議員らが『民間がだめなら国会で』と、議事堂で初めて上映してくれたのです。それが話題となり、欧州各国のテレビでも放映されました。ドール社は翌10年、私への訴えを取り下げました。米国の映画館や放送局では、なかなか上映には至りませんでしたが」

 今回、第1話として上映される作品は各国の映画祭で上映され、12年にはミラノ国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受けた。その後も世界80カ国以上での上映が続いている。日本では、スウェーデン大使館が後援する。

 ゲルテンさんは映画の世界に入る30代末まで、アフリカや中米で記者活動をした。その経験から、ジャーナリストの一般的な習性を「事件でも問題でも一つの現象を描く場合、人と、特に大多数とは違う角度から描くことに熱意と努力を発揮する」と見る。それだけに、企業に配慮したかのような米メディアの報道姿勢を意外に感じたという。

 「私には発見でした。私が外国人だから彼らの関心が薄かった面もありますが、米国は一種の『恐怖社会』じゃないかなという印象を持ちました。例えばスウェーデン人の私は、失職しても子供の教育費も家族の医療費も無料ですから、すぐには困らない。でも民間頼りの米国では、そうはいかないんです」

 さらに、訴訟についての習慣の違いがあると指摘する。「米国企業の場合、自社の信用を落とすような報道に対しては、イメージ戦略として、とりあえず訴えを起こす傾向がありますが、記者たちはそれを恐れているように思います。大企業に訴えられた新聞社が、末端の記者を解雇して訴訟を免れる例が過去に何例もあるのです。少人数の調査で、ようやく貴重な事実を発掘しても、十分な訴訟費用のないメディアだと記者たちを最後まで守りきろうとしないこともあります」

 米国の観客の反応にも違和感を覚えたという。感動を語り、涙を流す人もいた。それは何を意味するのか。「映画は裁判を描いただけなのに、それが上映されないのはおかしいと私は言い続けた。つまり当たり前のことをしたわけですが、私の知る少なからぬ米国人には、一人で抵抗することがよほどすごいことのように思えたようです。それだけ当局や大企業からの圧力が浸透しているということではないでしょうか」

 09年に始まる騒動から6年半が過ぎた。ゲルテンさんは自分を取り巻くメディア関係者の印象から、「ジャーナリストが年々弱くなってきている」と思うようになった。「ネットの浸透、紙メディアの衰退で、ジャーナリストは常に失職を恐れています。でも不安や恐れにばかりとらわれていては、良い仕事はできません。独立した、自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育ちません。政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流されることになってしまいます。本当の話には必ず批判があります。後に賞を受けたような報道は必ず、その渦中では反論を浴び、圧力や批判を受ける。だからこそ、ひるんではならないのです」

 ドール社のウィリアム・ゴールドフィールド広報部長は本紙の取材に「両作品はドールについて真実を語っていない。農薬使用に関する誤ったドキュメンタリーであり、ドールと米国の裁判所を欺いた偽りの話を事実として売り込んでいる。ドールはゲルテン氏を黙らせたいのではない。言論の自由は基本的人権だ。だが、それが第三者を巻き込む時は常に、真実を語る義務を伴うのは自明のことだ」とコメントしている。

 作品は東京・渋谷のユーロスペース(配給・きろくびと)で上映中。3月18日までの予定。問い合わせはユーロスペース(03・3461・0211)。